通神想起譚 –四条編–

あれは西暦792年頃のことだっただろうか。

青い山々が取り囲んだ、水源豊かで広大な葛野(かどの)の地を見下ろすことのできる小高い丘で、一人の男が心赴くままに何かを決意した様子で立っていた。

「帝、眼下に見えるは葛󠄀野の地でございます。右手に見える川は葛󠄀野川、左手に見えるは――」
「説明はよいぞ。ここに決めた!」
「そ、それでは……早速!」

ここは、船岡山。ちょうど葛󠄀野の地の北方にある小高い丘だ。後にできる平安京が全て見渡せる位置にあり、この土地はまさしく男が想像していた四神相応(しじんそうおう)の地。

男はしばらくの間、そこを離れることなく、丘の上からずっと目を輝かせ、間もなく新京を創らんとするこの土地のことを見つめていた――

男たちが見ていた葛󠄀野の地の西には『太秦(うずまさ)』と呼ばれし場所がある。太秦にはそこへ住む人々の声をよく聞く秦氏(はたし)が納めていた。

太秦を拠点とし、この土地を代々治めていたの一族は、酒を造り、(かいこ)から絹を作り、土地の者たちと一丸となって財を成している。

100年ほど昔には近くを流れ、度々氾濫する葛野川(今の桂川)に(せき)を作ったりもして、この地を住みやすく実りのある土地へと開拓してきたのだ。

一族は、西暦500年過ぎ頃に、葛野の地へとやってきた渡来人である。

美しい緑豊かな山々と雄大な川の流れに魅了され、ここを安住の地としたようだ。

先住民たちも、いつしか秦一族の知恵と行動力に従うようになり、様々な技術を継承して、葛野の地を共に盛り立ててきた。

この地で数百年、土地で採れた物を食べ、繁栄してきたのだから、先住民たちからは、もうよそから来たなどとは言われなくなっていたことだろう。

秦一族は、長岡京に住む貴族・藤原家とも婚姻を結び、政を担う家柄の者ともつながりがすでにあり……今日は、その長岡京より使いの者がやってきている。

藤原氏の血縁筋に嫁いだ、現秦氏首長の姉からの文を持って――

人間たちが新京を創らんと画策している、ちょうどそのころ。

山々が色づく景色の中に、ぽつんと青年が立ち尽くしていた。

どうも、黄金色の稲穂が風にうねる光景を眺めているようだ。

人々が笑顔で稲刈りをしている姿を、少し距離を置いて眺めているのは、後に四条大路(しじょうおおじ)と名の付く青年。彼は時折、目を細めて満足そうに口元をほころばせていた。

人々を手伝うことはなく、ただそこに立っているだけなのに、とても嬉し気な様子で。

そして、何故かふいに身をひそめたりして、人々に見つからぬよう気をつけているようにもみえる。

それは、なるべく人間たちと関わりを持たないようにという彼なりの配慮のようだ。

そんな嬉し気な顔が一変、彼はふと何かを考え始めた。

(……あれは、松尾大社(まつおたいしゃ)が出来たころだったか。あの日は、笛や太鼓の音が聞こえていて人々の笑い声、楽しげな様子にいつの間にか耳を傾けていたな……)

青年の遡った記憶は、西暦701年の松尾大社創建の日のこと。

当時、秦一族の首長であった秦忌寸都理(はたのいみきとり)氏が、元々先住民たちが祀っていた山の神と同じ場所に日の神と水の女神、そして月の神を松尾山へと祀り建てた。その参道へと続く通りに人々が行き交い始める。

ちょうど、その頃から自身の記憶がはっきりし始めたのではないかと青年は思い返していた。

(あちこちの様々な出来事が頭の中に飛び込んでくるようになったのも、ちょうど松尾大社が出来た頃。毎年皆が珍妙な面をつけ、太秦から笛や太鼓を鳴らし、大勢が歩き、舞いながらやってくるようになってから……我はここにいたのではないか?)

と思い出しながら、自身の手に持つ笛を吹く。

青年の笛の音は、風に乗り、(こうべ)を垂れる稲穂を揺らす……が急にピタリと止んだ。

「よき音色なのに、何故やめたのじゃ。もっと聞かせてくれ」

いきなり声がしたと思ったら、すぐそばに不思議なお面を付けた少年が青年を見上げて立っていた。

「……そなたは誰だ?」
「誰だと聞かれても困るのう……名はないのじゃ」
「そう、か。……我も同じだ、名はない。だが、そなたをどこかで見たことがある……」

少年のつま先から頭のてっぺんまでを、青年はよく観察してみた。

「どこでだったか……」と考えていると、「どこで?」とすぐに合いの手が入る。

「あぁ、もう何十年も前にその姿を見た気がする……ん!?」
「最初に出会ったのは、桜が咲いておった晩だったかのぅ」

少年のお面越しに見える眼差しが弧を描き、青年はハッとした。

そう、何十年もまえのちょうど桜が咲き出した頃だ、笛や太鼓が遠くから聞こえてくる夜更けに青年は、酒壺を抱えて立ち去る少年を見たことがあったのだ。

松尾大社の参道から伸びる道で、すれ違う瞬間に見た姿と少年が完全に一致した。

そして、鼻歌交じりで、ひょこひょこと小さくなっていく少年の後姿まで、鮮明に思い出す。

「フフ。思い出したかの?」
「思い出した。……そなた、酒を盗んでいった小僧か?」

少年は、あわてて目を丸くして首を横に振る。

「わたくしは、この土地でできる酒が好きでのぅ。あのが出来たころより、酒を分けてもらっておるのじゃ」
「当時から変わらぬ姿のままだが、人間に関わって、その……何ともないのか?」
「何とも、とは?」

青年と少年の間に、わずかながら沈黙が生まれる。

「……人に不思議がられないのか? という意味合いだ」
「ふむ。というお主は不思議がられたということじゃな」

少年はくすくすと笑いながら、青年の前に一歩近づいて顔を寄せてきた。

「わたくしも、お主も人間ではない。どうやらどの人間にも見えるように念じ、姿を見せたあとは、見ていたことをなかったことにできるようじゃ」
「それはつまり、誰にでも見せるようにできて、その記憶を消せると?」
「その様子では、まだ、試したことはなさそうじゃの」
「知らなかった……我らは一体、何者なのだ?」

すると、お面の向こうの眼は再び弧を描いた。

青年にとって、ずっと謎だった答えが少年の口から聞くことができる……そう思って膨らんだ期待はこのあとすぐにしぼむことになる。

「何者かとな? さあ、わたくしにもまだわからぬ」
「そ、そうか……」

青年は肩を落としながら、考えていた。この少年と己が同じ何者かである保証はどこにもない、もしかしたら今まで見てきた人間とちがう存在である可能性もあるのかもしれないと。

考えても答えの出ないことは、考えない方がいい。青年は次に、目の前の小僧がどこからやって来るのかも気になったので、ついでに聞いてみることにした。

「いつも、どこからくるのだ?」
「質問ばかりじゃの。わたくしは、ここから北へ上り、次に東へずいぶん歩くと賀茂族のいる村があっての、その村の手前から来ておる。そんなことより、お主はいつから動けるようになったのじゃ?」

いつから動けるようになったのか、ということはこの少年も動けなかったことがあるのだ。

青年は、己が動けるようになった日のことを少年に話して聞かせることにした。

あれはたしか、雨が続き大きな水害がでた年のことだ。

葛野川の上流に堰があるのにも関わらず、川は決壊し氾濫。この辺り一帯が水に流されたことがあった。

一瞬で流されていく人や家畜。助けを呼ぶ声は強い風にかき消され、水は生き物のように全てを飲み込んでいった。

昼間なのに重く黒い雲が立ち込めている空。

青年は大粒の雨がひどく落ちてくる、この空を瞬きもせずに見続けていた。

その場所から動くことができない青年の腰が水に浸っていく。だが、彼は恐れることもなく、ただただ立ち尽くしていた。

(……いつかの嵐よりも被害がでそうだ。雨の後、人間たちは大変だろうな)

豪雨の中、そんなことをぼんやりと考えていると、風の音と共にどこからか人の声がする――

「早く、こっちへ来て! あなたも流されてしまう!」

風と風の間を抜けて聞こえてくる声は、たしかに人の声。しかも、女の声だ。

(逃げ遅れたのか……?)

声のする方へ振り返ると、娘は丘からこちらへと向かって歩いてくる。

水の抵抗で思うように前へと進まないのか、しきりに青年へと声をかけてきた。

「ねえ! 聞こえているんでしょう!? 早く、こちらへ!」
「危ないのは、そなただ! 我に構うことはない。引き返せ!」
「流されるって言っているの!」
「我は流されたりせぬ!」
「水の恐ろしさを知らないの?! さあ、私と行きましょう!」

青年の腕をつかんだ娘は思ったよりも力が強く、手早く縄を青年に括り付けた。

「何をする!」
「これでいいわ。さあ、しっかり縄を掴んで! いいわよー! 一気に引っ張って!」

娘は手を上げ、丘にいる男たちの方を向いて合図をした。

縄を懸命に引っ張る男たち、その縄に娘もつかまって手繰り寄せられる。

その瞬間、青年の足が水中の地面より離れるのを感じた。

「なっ……そんな、まさか!?」

水に浮いて雨粒が顔に当たる。

青年の身体は水の上を滑るように引き寄せられ、人間たちの避難している丘へと近づいていった――

「そうか。水害でのう。お主の自由には人が関わっておったか……」
「懐かしい。あの娘が我を助けようとしなければ、今も地面に囚われたまま動けなかっただろう。それから我は太秦で、秦の一族と二十年ほど共に暮らしたのだ」
「ほう。人と共に二十年。それで先ほど、不思議がられないのかとわたくしに問うたのじゃな」
「ああ。その二十年という間に、人について色々なことがわかった。二十年あれば人は、子供は大人に、大人は老人になる。しかし我の姿は変わらぬから、次第に村のみんなが距離を置くようになっていった……」
「ほう。それでどうしたのじゃ?」
「我を不憫に思った当時の秦一族の首長は、我に葛󠄀野の土地のために神事を手伝うようにと云った。日照りの時は雨乞いをし、豊作を祈り、この葛󠄀野の地の安寧を松尾山で祈り……人々のために祈り続けて……我はこの土地の神の子と呼ばれるようになった」
「ほう、神の子とな」
「ああ。だが、人間の願いを叶えられるはずもない。人間たちの願いは聞き届けられず、雨が降らず、不作が続くこともあった。そんな時、人間たちは全てを我のせいにした……」

少年はそれを聞いて、青年の腕をつかむ。

「人と違う己を恨んだか? それとも人を恨んだかの?」
「恨みなどはない。ただ我は神の子ではないことがわかっただけだ。人でもなく、神の子でもなく……我は一体何者なのか。それをずっと考えている」

青年の話を聞き、少年は何やら少しの間考え込んでいた。

しばらく考えていた少年は、青年を一瞥して急に歩き出す。

「また来る。考えても今は答えが出ぬようじゃ。わたくしたちが何者であるかなど。ただ一つ思い当たることはあるのじゃが……」
「それは何だ?」
「……道じゃ」
「道?」
「まあ、また話そうぞ。では、またの」
「待て! おい!」

青年が呼び止めるも、少年はひょこひょこと歩いて行ってしまう。

人の話を聞いておいて、帰って行ってしまうのか。

しかし、別に同情してほしかったわけではない。

名もない少年と、神の子と呼ばれていた自身はやはり同じ仲間なのだろうか……など、ふとそんなことを考えながら青年は、再び稲刈りをする人々の姿を眺め始めるのであった。


その頃、太秦の秦氏の屋敷には、長岡京からこの地を視察しにやってきていた帝の一行が到着していた。首長が姉からの手紙を読み終えたところに、ちょうど帝が立ち寄られたのだ。

長い屋根付き廊下を足早に歩きながら、首長は手紙を運んできた男を(たしな)めている。

「手紙を渡す前に、帝が来ることを何故早く言わぬ……まったく!」
「も、申し訳ございません! まさか、手紙のお届けと帝のご到着とが同じ日になるとは思わなくて……」
「もう、よい。姉上への返事は後だ。お前は裏庭で待っておれ」
「はッ!」

歴史上に残っているのかは定かではないが、帝は秦氏とお会いになった。そして、船岡山で見た葛󠄀野の地の話をなさったに違いない。

そこで、この地に新京を移したいというお話になり、秦氏への協力を仰いだようだ。

帝とお会いした後首長は、すぐに新京の話を帝から直接聞いたと姉宛の手紙に綴っていた。

手紙には、『帝がこちらへ来ることをお知らせ下さりありがとうございました』と。

しばらくして手紙を書き終わった首長が、裏庭で待つ男に手紙を託すと、部屋へ戻ってきた。久しぶりにきた姉からの手紙だ。

もう一度読み返そうと手にすると、もう一枚紙があることに気が付いた。小さく折りたたまれた、その紙を広げて目を落とすと――

『私たちが祀りたてた神の子は、まだあの場所においでですか? これから葛󠄀野の地が大きく変わっていくことを、どうぞお知らせしてください』

そう、書かれてあった。

「神の子……幼き私が兄のように慕っていた、あのお方のことか」

秦の首長は若かりし頃の姉が、嵐の晩に連れて帰ってきた青年のことを思い出し、すぐに彼をよく姿を見かける田園へと出かけることにした。


青年は稲穂の波の真ん中に立ちながら、太秦の方角から見慣れない一行が近づいてくるのを感じていた。人々はすでに今日の作業を終えて、家路へと着いた後だ。

誰もいないところへ近づいてくる人々は何のためにこちらへと向かっているのだろう。

日はまだ高い。もしかするとまっすぐ松尾大社へと向かっているのかもしれない。だが、己には全く関係のないことだ。青年は考えることを一時止めることにした。

「今日は、何もかもが気にかかる。思い当たることが『道』などと言い残していくから……」

少しして、見慣れない一行は川を越え、松尾大社へ立ち寄り川に沿って道を下り始めた。

それを感じ届けた後、青年へと声をかける男がいて振り返った。

「お久しぶりです。私のことは覚えておいでですか?」
「…… 都理 ( とり ) 殿の子孫か?」
「ははは。昔もあなたは私の事を都理の子孫と呼んでおられた。そうです、あれから40年経ちました。今では私が秦の首長になりました」
「そうか。見ての通り我は何も変わらぬ……」
「まだお怒りのことでしょう。私たち人間があなたに無理難題を押し付け、神の子などと勝手に祀りたてたことを」
「…………」
「それでも、離れたところからいつも我々を見守っていてくださった。ありがとうございます。私は知っておりましたよ。風の気持ちのいい夜更けには、あなたの笛の音が聞こえてきました。かつて豊穣を祈った折に、共に舞い踊った節の笛の音が」

首長は青年の言葉ににっこりと目を細め、話しを続ける。

「先ほど、こちらを通ったご一行は長岡京の帝のご一行です。昔、嵐の日にあなたを助けた姉が知らせてくれました。帝はこの葛󠄀野の地に新しい都を創るおつもりだと。そのことをあなたにも知らせしてほしいと……そして先ほど、この地を帝にお渡しすることになりました」
「何故、我に知らせる?」
「姉の言葉もありますが、私もお知らせするのが筋だと思ったからです。おそらく姉は、あなたが今も神の子であると信じている。当時、あなたを傷つけてしまったと悔いたまま嫁がれましたから」
「そうか。もしできるのであれば、我は未だに何者かはわからぬままだが、傷ついてはいないと伝えてくれ。それに、怒りという気持ちは今も昔も持ち合わせてはいなかったと」
「それを聞いて安心しました。姉にも必ず伝えます」
「我のような者に、知らせてくれて感謝する。新京については我には想像がつかぬことだ。が、我がここに存在しているのも確か。ならば、昔のようにここに住む人々の安寧を祈っていよう」
「お会い出来てよかった。また来ます」

首長は青年に深々と頭を下げると、元来た道を戻っていった。

青年は笛を手にして思い出していた。

それは、松尾大社が出来た後のいつかの豊穣の祭りで、都理と話をしたことだ。

それはまだ青年の存在や意識があったりなかったりした不安定な状態で、また人間にも認識されていない頃、唯一、時々だが話しかけてくれる人間がいた。

それが都理だった。

彼はこの時も祭りの輪の中へ行こうと誘ってくれたが、その場に囚われて自由に動けなかった青年は首を横に振る。

すると「気が向いたらおいで」と青年へ笛を持たせてくれた。

これは後に都理の子孫たちに聞いた話だが、都理には不思議な力があったそうだ。

普通の人間には視ることができない精霊たちと話ができると――

そんな昔のことを思い出しながら、茜色に染まりゆく景色を青年は眺めていた。

それから、時が経ち――新京ができた次の年の春。

この日は豊穣の祭りがおこなわれていて、野に咲く花々や小鳥も舞い踊っているかのように感じる温かな景色が広がっていた。

そこへ酒をわけてもらった帰りの少年が、青年へと声をかける。

この日の少年は、何か嬉し気な足取りで近づいてきた。

「久しいのう。今日はわたくしにも名がついたので立ち寄らせてもらったぞ」
「3年ぶりになるか?」
「ん? さて、あの時は秋であったからの。今は春。2年と幾月かぶりではないかの?」
「それで、名はなんと決まった?」
「わたくしの名は、大宮までは 春日小路 ( かすがのこうじ ) と呼ばれ、それより右京では 木蘭小路 ( もくらんこうじ ) と呼ばれるようになったのじゃ。名が一気に二つじゃ、羨ましかろう?」 「はて、それならば、どちらで呼べばいい?」
「どちらでも好きに呼べばよいのではないかの。しかし、わたくしたちが何者なのかという謎はこれで解けたであろう」

青年はこの新京の名がついた知らせも、秦の首長に聞いていた。

その時に、あちこちから自分の名も知ることになった。と同時に、少年の言う通り、己が何者であるのかを知ったのだ。

「謎、確かに解けたな。我は道であったかと驚きもした」
「お主の名は間違いでなければ、確か……」
「ああ。 四条大路 ( しじょうおおじ ) と呼ばれている。名は一つだが、ありがたい」

青年の意識は、西の端は松尾大社から、東の端は八坂神社までを結んでいた。

それに気が付き、あちこちをウロウロと散策するようにもなったと、少年・春日小路へと話す。

「そういえば、少し前に 烏丸小路 ( からすまるこうじ ) 辺りで、我らと同じ境遇の者を見かけたように感じたが……気のせいだったようだ。平安京と名がついた頃に見に行ってみたがいなかった」
「ほう。じゃが、わたくしたちのような境遇の者、確かに他にも存在している。わたくしも見かけたことがあるぞ。こうして話すのはお主だけじゃがの」

少年、春日小路はそう笑いながら歩きはじめる……も、立ち止まり振り返った。

「四条大路、お主のような存在がおって、わたくしはホッとした。わたくしだけが稀有なのかと思うておったからの」
「それは我とて同じだ」
「わたくしたちのように思うて、悩んでおる者もおろう。わたくしは平安京でそのような者を探すとしようかの。同じ境遇の者がいると知恵も集まるじゃろうて」

そう言った春日小路は、お面を少しだけずらして笑う。

お面の下から現れた口元だけが、ほころんで見えた。

「なんだ。顔は見せてはくれないのだな」
「フフッ、またの、四条!」

それからの四条大路は目まぐるしい歴史の流れに身を置いた。

中でも、この平安時代のおおよそ400年間という時の流れの中で、多くの人間達と出会い、文化を吸収したことを後に彼は仲間に話している。

また、春日小路とも時々交流を持ち、ある夏の日には……

「今日は、川遊びを人間たちと楽しんでみようかのう」
「……川遊び?」
「そうじゃ、まだ試しておらぬようじゃからの」

四条は前に春日小路から聞いていたことを思い出した。誰にでも姿を見せるようにできて、その記憶を消せる方法。

とても興味深いことだったのですぐに思い出せたようだった。

「人間に見える姿で共に遊び、遊び終わったらわたくしたちはそこに存在しなかったかの如く、人間たちの記憶から消えるのじゃ」
「楽しそうではあるが、一つ疑問がある。我を見えない人間などいるのか?」
「ん? では、お主はいつも姿を見せておるということなのではないのかの?」
「いつも見せている……? では、見せないようにできるということか!」
「なるほどのぅ……だから、稲刈り中の人間たちを隠れて見ておったのか。ならば、遊んだ後に消えるよう、念じてみればよいだけのこと。やってみようではないか」

その日の川遊びで四条は、人間たちから見えない姿に変ることはできなかった。

しかし、川で遊んでいた子供らの記憶から、春日小路の存在は見事に消えていたことを知る。

その後四条は、何度も試してみるようになり、今では姿を隠すことの方が上手くできるようになった。

時間(とき)はすすみ――

平安時代中期には大きな火災や、疫病の蔓延などの災いが人間たちを襲う。

右京の衰退とともに多くの道も途絶えた。きっと喪失した四条と同じ境遇の仲間もいたことだろう。

だが、四条大路だけは松尾大社へと続く大切な道として人々にも愛され、衰退することはなかった。

民衆たちが通りの近くへと集まり商業への取り組みも盛んにおこなわれていたという。

また、平安時代の後期になると、八坂神社よりほど近い辺りでは、人々が集まる華やかな商店などがたちならび、四条大路通りには遠行の外出、狩猟の際に腰から両足まで覆う、毛皮を扱う大きな屋形もあったのだ。

今も昔も人々が集まり利用するこの道には松尾大社と八坂神社のご加護があるのかもしれないと四条は思う。

「当時を思うと、人間たちがこのような進化を遂げるなど想像もできなかった」
「そうじゃのう」
「今までいろいろと考えていたが、人間たちがいなければ我らは存在しないのだな」
「そうじゃ。人間たちがいなければ、酒も飲めぬ」
「フフッ。ハハハハ……」

今、令和という年号の時、四条とかつて春日小路だった丸太町は、四条始まりの地を松尾山山上から眺めていた。人間からは見えない姿だからか、大笑いする四条。

「何を笑っておるのじゃ? 酒が飲めぬのはわたくしにとっては一大事なのじゃぞ?」
「……フッ、いや……あの時、酒を盗んだ小僧だなどと言って悪かったと思ってな」
「そうじゃった。あれはひどい言いがかりであったな。わたくしが『酒を盗んだ』などと」
「……本当に思っていたことだから、弁解はせぬが悪かった」
「わたくしのようないたいけな子供に見える者に、ようもあのような事を言えたもんじゃ」
「……あのような不思議な面をつけておったら、子供とて怪しい。その猫の面に変えた時は、我も安心したぞ」
「四条!」
「フフフ……そう怒るな。思っていたことを言っただけだ」
「まあ、よい。お主という奴は相変わらずじゃな。歯に衣着せぬ物言いをする」
「我の長所だからな」
「ふん。……しかし、久しぶりに西山から京を眺めるのう」
「山々は変わらぬ。が、街は人々の建てた建物で埋め尽くされている、か」
「あの辺りは田んぼであったの。四条がいつも立っておったのは、あの辺りかの?」
「おそらくそうだな……」

そう言ったきり、四条は丸太町を見て満足気な息を一つついた。

「どうしたのじゃ?」
「いや。主上との付き合いも長きにわたるなと思っていた」
「出会ったころから考えると本当に長い時を過ごしたものじゃな」
「ああ。後に応仁の乱と呼ばれるようになった戦禍では、もう我らも最後かと思ったが、何とか廃れた通りを人間が美しく戻してくれ、互いの再会も叶った」
「あの戦禍で、元通りには戻れなかった者もいるがの」
「……それはわかっている。だが、新しい仲間も増えた。そうであろう?」
「そうじゃの」

彼らは『通神』

平安京ができるころから存在し、様々な苦境を越えて、ここに残る通りの化身。

今ではいつも人々の行き交う通りを見守り、京都の人々の安寧を祈っている。

四条は烏丸と同じ時期に、通神・東西組のリーダーとしてこの京都の安寧を祈ることになった。

そのころの話はまたの機会にしようと思う。

四条は、よく己の通りの遥か上空に浮かんでいることがある。

毎年大晦日の晩には、上空にて年神様をお迎えするのも四条の役目の一つだ。

『この京の地に、今年も神のご加護があらんことを』と。

月が美しい夜には、耳を澄ませてみるといい。

空からこの地を慈しむかのような四条の笛の音が、微かに聞こえてくることだろう。

- 完 -