通神想起譚 –綾小路編–

「失礼します。 主様 ( あるじさま ) 、本日、外は小雨が降っています」
「そうか…… ( あや ) 。そこへ、座りなさい」

江戸時代、末期。

広い屋敷の一室には、初老の男性が床に伏せていた。側仕えの綾と呼ばれる少年は、新しい水差しを持ってきたようで、美しい所作で襖を閉める。

「何か、御用ですか?」

そう少年は、主に尋ねた。

いつものように主の声を聞き洩らさぬようにと、少し顔を近づけて、主の返事を待つ。

すると、主は瞼をゆっくりと開けて、優しいまなざしで少年を見た。

「桜が咲くまで、私はもたぬだろう。お前と花見がしたかったのに、残念だ……ケホッ、ケホッ」
「主様、大丈夫ですか!?」
「うむ」

少年は、主を抱き起こして水を飲ませる。

「ありがとう。話を続けてもいいか?」
「はい」
「……お前は本当に、よく私に仕えてくれた」
「主様……」

少年は、心のどこかで何かを悟ったような表情をしていた。幾度となく、今際の際に立ち会ってきたのだ。これから主が何を話すのかさえも、わかっていたのかもしれない。

「お前の前の主人が言っていた。いつまでも少年のままの姿で生きる、有能な者がいると。その者を家に迎え入れた者は、繁栄の途に導かれるであろうと。初めてそれを聞かされた時は、半信半疑であったが……真であったな。おかげで我が家は商いで、富を築くことができた」
「…………」

少年の心の中では、自分に勝手につけられた、言い伝えは正直心苦しいところもあったようで、主人の言葉に対して、言葉を返すことができないでいた。

ただ、少年と主人の間に、僅かな間、お互いに共通する思い出が脳裏に過ったのだろう。

静謐 ( せいひつ ) な心地よい空気が、辺りには漂った。

「綾……」
「はい」
「これを持っていくがいい。お前の次の主には話を通してある」

一通の書簡が、少年に手渡された。

「……主様。もう少し御側にいてはいけませんか?」

主人は、少年の手を取ると優しく微笑む。

「次の主になるお方は、この世界を裏で 牛耳 ( ぎゅうじ ) っているという噂だが、優しいお方だ。安心して行くといい。きっとお前を大切にしてくださる」
「主様、せめて……もう少しだけ……」
「……綾。ありがとう……お前には私の最後の姿は見せたくないのだ……わかっておくれ。さあ、行きなさい」

これ以上は、無理だと思った少年は、主へ深々と頭を下げ、お別れの挨拶をする。

「主様……長い間、お世話になりました」
「ありがとう。……さようなら、綾」

少年は、書簡を胸に抱き、主人の下を立ち去ることにした。

暮らし慣れた屋敷を出て、 綾小路通 ( あやのこうじどおり ) を西へと歩いていると、濡れた地面の香りに混ざって、梅の花の香りがする。

「……かなり遅咲きの梅だな」

そんなことを思いながら、次の主の屋敷へと向かう。

梅の花の香りを嗅ぐと、自然に初めて仕えた方を思い出す。少年は、いつの間にか今までのことを振り返っていた。

「私は、いつから記憶があるのだろうか」と。

己が人ではないことは、ずっとわかっていた少年。記憶をさかのぼると……その記憶に映る場所はわからないが、白い花と紅い花をつける梅の木の映像が、頭の中には浮かんで出てくる。

「あれは、この都が出来た当時の記憶……なのかもしれない」

不確かな記憶はどこか懐かしくもあり、少年はその記憶のある時代へと意識を飛ばした。何故か、今、思い出しておきたかったのだ――

初めて意識が芽生えた頃のことを思うと、意識下には満開の桜と行き交う人々の感嘆の声が思い出される。

平安京794年の春の事だ。

『綾小路通』

通りを歩く人々が、美しい名の通りだと褒めてくれていることが嬉しかった。

この通りには公家の邸宅なども立ち並んでいたため、多くの人間が物を売りに来たり、邸宅への客人の往来など、なかなかに賑わっていた。ただ、そんな華々しい記憶は全て、自分の中へと流れ込んでくる、どこの場所であるかもわからない頭の中だけの映像であった。

そのような賑やかな光景ばかりでもなかったが、朝も昼も夜も……春も夏も秋も冬も、いつしか意識の芽生えた場所で、少年がぽつんと微動だにせず、ただ耳を澄ませて立っていた。

風を感じ、雨に打たれ、雪に埋もれ、日を浴びて……行き交う人間たちの話を聞く少年の日々。

話を聴きながら、人間たちの言葉をも自然と学び、考え事も日を追うごとにはっきりとしてきたようだ。

(私は……この場所にだけ宿る、精霊? そうでなければ、何なのだろう?)

この日も、このようなことを考えながら、ただただ立ち尽くす。

こうやって、道に立ち尽くしていると、あっという間に誰にも何にも気づかれずに、どこかで梅が咲いた、桜が咲いたなどという記憶を数えては、百年くらいが経ってしまっていた。

そんな頃、貴族の邸宅の前で、琵琶を弾いて仏説を語り稼いでいる人間を見かけた。

貧しい身なりで、彼が琵琶を弾き語ると、邸宅から女房が出てきて、屋敷へと招き入れる。綾小路は、その様子を伺い見て、屋敷の外から琵琶と語りの音を聞いていた。

弦をはじく音が、時折、味わい深い震えた音になる。ベベン……と大きな印象を残した後に、節に合わせて語られる唄……どれもが、長い間ここに居るが初めて聞くものだった。

(この……音、好きだ……な)

その後、演奏が終わると、邸宅の世話人らしき者が、琵琶を持つ人間を外へと連れて出てきた。どうやら、その人間は目が見えない様子だ。

盲目の人間は、邸宅側へと頭を下げ、こちらへとゆっくりやってくる。

そして、綾小路に話しかけた。

「そこにおいでなら、少し助けてはくださらぬか」

綾小路は、誰に話しかけているのかわからずに、辺りをきょろきょろと見渡した。だが、そこには他に人間も動物もいなかった。

「はて? 気のせいか? 誰もおらなんだか?」

目の見えない法師は、琵琶を持たない片方の手を前に出して、手で辺りを探っている。

「おかしい。誰かがいる気配がするというのに……」

(目の見える人間は、誰も私に気が付かないのに、この人は私が居ることに気が付いているのか?)

試しに、声をかけるか、どうしようかと考えていると、法師の伸ばした手が綾小路の腕へと触れる――

「あっ」
「やはり、おるではないか。何故、意地悪をする?」
「い、いや……意地悪などしていません。本当に私がわかるのですか?」
「おかしなことを言う。わかるぞ。ほれ、こうやって触れているではないか」

法師がそう言った瞬間、綾小路は立ち尽くしていた場所から、動くことが出来た。

「……動ける」
「何やら、訳がありそうだな。もし良ければ、この琵琶法師に話してみぬか?」

綾小路通を西へと向かうと、公家の邸宅も減り雨風がしのげる程の小屋がある。法師と綾小路はそこで夜を過ごすことにした。

目が見えない法師だが、薪をくべて火をおこすことが出来た。綾小路は、それを見て本当は目が見えているのではないかと、不思議に思う。

「あの……目は本当に見えないのですか?」
「ああ。生まれた時から見えぬ」

法師はそう言うと、綾小路の隣へと座る。

「ですが、私の事は視えていたかのように、話しかけられた……」
「気配がしたからのう」
「気配……誰も、今まで私に気づくことはなかった……ずっと私はあの場に居たのに」
「お前は、あの場所にずっと立っておったというのか?」
「……はい。長い間、立っていました」
「そうか。それは寂しかっただろう。名は何という?」
「…………」

パチパチと炎が大きくなる音、初めて綾小路の話を聞いてくれる人間。小屋の中、綾小路は今まで感じたことがないほどに、全てが温かく感じていた。けれど、名を聞かれて答えることはできなかった。

夜も更けて、外の風の音がする。すっかりと法師は眠ってしまい、綾小路は頭の中でこの日あった出来事を整理した。

(法師の話は面白かった。この平安京の外にも、世界は広がっているのか。いろいろな場所の景色が、頭の中に飛び込んでくるのは、どこなのか……自由になったからには探しに行ってみたい……)

己が立っていた道は、『綾小路通』と呼ばれて百年ほど。見ていなくても、この道での出来事が己に入ってきていることは、何となくわかっていたのだろう。

綾小路は、己が綾小路と呼ばれていることも、その名が好きな理由も腑に落ちていた。

「……名は綾小路だが、そう答えていいものか、わからなかったな」

後は、この法師と他の人間に、どのような違いがあるのかを考える。

「視える法師と、視えぬ人間……その違いは何なのだろう」と。

翌日、法師に連れられてきた場所には、日ノ本のあちこちを旅してきた法師がたくさん集まっていた。

彼らのほとんどが琵琶を持ち、目が見えないようだ。何とも楽し気に話をし、時々、一斉に琵琶を弾き始めて、その迫力に綾小路は驚いた。

「綾、どうだ? ここにはお前に気が付かない者はいないだろう?」
「……?」
「そこにいる春の風のような気を持つ人は、綾というのか?」
「ああ、この者の名は綾だ」
「……綾?」
「よかろう? 綾小路通にいたから『綾』と呼ぶことにした」

己の存在に気づき、話しかけてくる法師たち。綾小路は、皆に『綾』と呼ばれて、法師たちから様々な国の話を聞いた。時折、公家の邸宅へと出入りする彼らから、公家の家々の事情を聞いたりして、人を介して初めて噂や情報を得ることを覚えた。

そして、皆が己を『綾』と呼んでくれる。その気さくさが嬉しくて、綾小路はしばらくの間、この琵琶法師たちと過ごしていた。

ある日、法師から藤原氏の邸宅で宴が行われると聞く。その宴にて、琵琶の演奏をすることになったので、その場所まで連れて行って欲しいと頼まれる。

「悪い。この辺りで一番大きな屋敷だと聞くが、こうも藤原様の屋敷が多いと私には、どの家に呼ばれたのかさっぱり」
「いいんです。それくらいはできますが、私は目の見える人間には視えない存在のようで、人とのやり取りはできないと思いますが、いいですか?」
「ああ。ただ私を連れて行ってくれればよい」

そうやって法師を招いた藤原家の庭に着くと、和歌を詠む貴族たちが大勢集まっていた。華やかな衣装を着た貴族たちの真ん中に通されて、立っていると法師を招いた本人が出てきた。

「お招き、ありがとうございます」

頭を下げた、法師。どこからか、くすくすと笑う声がする。

法師には見えないのだ。この状況が。皆がどのような目で、法師の事を見ているのか。

だが、法師はその場に胡坐をかくと琵琶を弾こうとした。

その時――

「我らの宴に、迷うておいでかの? ここはそなたのような者が来る場所ではないぞ」

何という事か……招いた本人がそう言ったのだ。

身分の低い法師を見世物にするための程度の低い悪ふざけだと悟った綾小路は、初めて、己で止められないほどの怒りを覚え、法師の隣で「わぁーっ!」と叫んだ! と同時に、庭にいる人々を冷たい突風が吹き曝す!

悲鳴と、逃げ惑う人々。

風が止んだとたん、そこにいる貴族たちは、次々と我に返った。

「今、法師さまに対して笑った者は誰だ? 先ほどの行いは誠に人として正しいことなのか?」

そう、綾小路が貴族たちに言い放つ。

貴族たちは、突風が吹く前にはいなかった綾小路を目にして、どこから現れたのかと騒ぎ始めた。

(まったく、誰も何も答えないのか……急に私の姿が視えるようになって驚いているようだな……視えるようになって都合がいい。このまま、法師さまとここを出よう)

己の問いに答えない貴族たちに呆れた綾小路は、法師の手を取り立ち上がるよう、しぐさで伝えた。

「法師さま、帰りましょう」
「綾……お前という奴は……何も怒ることではない。こういうことは慣れておる……が、ありがとう」

綾小路を見上げる法師は、優しい微笑みをたたえていた。

それを見ていた貴族の一人が近づいてきた。

「悪かった。止めに入らなかった私も同罪だ。どれ、手を貸そう」
「いえ、結構です。さあ、法師さま」

法師を連れて行こうとする、綾小路を止めたのは法師だった。

「失礼ですが、そのお声…… 菅原道真公 ( すがわらのみちざねこう ) であらせられますか?」
「如何にも。私は菅原道真だ。以前、どこかでお会いしたか?」
「いいえ。ですが前に、梅の香りに誘われて、 白梅殿 ( はくばいでん ) を通りかかったことがございました。その時、楽し気にお子様たちと話をされる声を聞いていたら、使用人の方に道真さまが久しぶりに帰ってこられたのだと聞いたことがありましたもので……」
「そうか。法師殿、今日は月の 晦日 ( みそか ) 。もし良ければ我が家のかまど祓いをお願いできないか? 今朝、いつも頼んでいる巫女が具合を悪くしたと女房が嘆いておったのだ」
「私で良ければ喜んで。ちょうど、今日は日も良い晦日、これもご縁でしょう」

法師のもう片方の手を、貴族である菅原道真という男が取っている。

あまりにも自然な流れで、二人が歩いていくので綾小路もついて行かざるを得ない。

そんな時に、菅原道真はあの貴族たちの仲間ではないのか? という疑問が綾小路の頭の中に浮かんでいた。

菅原道真公の屋敷へ着くと、さっそく法師は使用人に案内され台所へと通された。

道真が法師に頼んだのは、かまど祓いという火を扱う台所に宿る、荒神のためのお祓いのこと。火事を出さぬよう、家に穢れを入れぬようにと、月の晦日に下級僧や巫女、陰陽師の類にお祓いをお願いしている家も当時は多かった。

そのかまど祓いが終わるまで、綾小路は道真公に屋敷の庭へと案内された。

庭には、菊の花が数多く咲いていて夕時の風に揺れている。

「美しい花……これは何という花ですか?」
「ふむ……これは菊という花だ」
「菊……ありがとうございます」
「綾と言ったな?」
「はい」
「先ほどまで、そなたは私のことも怒っていたであろう?」
「……怒っていました」
「もう、怒ってはいないのか?」
「はい。あなたは法師さまへ優しく、丁寧に接してくださった。あの場に居た人たちとは違う……と思いましたので」

そう、綾小路が応えると、道真公は首を振った。

「あの場でも申したが、何も言わずに見ていた私も同罪だ」
「いえ。あなたは法師さまに謝られた。それが出来たのはあなただけです」
「綾、なかなかそなたのようには言えぬ。人として、と考えが及ばない者もこの世には多いのだ。私はあの場に居て、善い行いを見せてもらったと思っている。その善い行いをしたのは、綾、そなただ」

善い行いだと褒めてもらった綾小路。何だか、胸がいっぱいになるような気がした。

そこへ、道真の子供らが集まってきた。

「父上、お帰りなさい」
「わーい、父上!」
「あれ? この子はだあれ?」
「ん? この子は『綾』というそうだ」
「あやー、ぼくはね、くままろ」
「わたしは、みよこ」

人間の子供たちと触れ合うのも初めての事。綾小路はどう接していいのかわからなかったが、無垢な笑顔にほだされて、つられて笑顔を返す。

「綾、もし良ければだが……ここでは子供たちに読み書きを教えている。習いに来ないか?」
「読み書き……?」

すると、かまど祓いを終えた法師さまが、使用人に案内されて現れた。

「綾。いいお話だ、私はぜひ受けた方がいいと思う」
「法師さま……」

この日、法師さまと一緒に小屋へと帰った綾小路は、人間にもいろいろな考えを持つ者がいるんだなと考えていた。そして、あの場に居た人間たちが、綾小路のことを認識したことも考える。

「どの人間も私が視えているようでした。何故、あの時にそうなったのか……」
「おそらく、怒りに任せて叫んだことが、皆に姿を見せることにつながったのだろう」
「そうでしょうか……」
「ああ。怒りはぶつけるもの。綾は、綾自身で人に視られるようにしたのではないかと思う」
「……そうかもしれません」
「のう、綾。道真公の話だが、お受けして人として生きる術を身につけた方がいいと私は考えるのだが……」
「ですが……私は法師さまと居る方が、これからのことを心配しなくていいのです」
「心配? 何に不安を抱いている?」

綾小路は、法師にまだ言っていないことがあった。出会った頃、長い間立っていたとは言ったが、百年近くも立っていたことや、その百年近くの間で、雨が降った時に道にできる水たまりに映る、己の姿がずっと変わらなかったことを、まだ話してはいなかった。

そんな己が、人間と共に過ごすのは無理だということも。

だが、目の見えないこの人となら……姿が変わらない己でも大丈夫なのではないかと思っていることも事実。そう考えていた己の気持ちに、胸が苦しくなることを覚えた。

「本当の事を話します」
「本当の事とは?」
「はい。私は法師さまと出会ったとき、長い間立っていたと言いました」
「そうであったな」
「私はあの場所に、百年近く立っていたのです。その百年の間、雨が降る度に私の足元には水がたまりました。そこに映し出される私の姿は、一度も変わることがなかった……」

話してしまった後悔が押し寄せ、法師さまは私を見捨てるかもしれない、綾小路は心の中でそう感じていたに違いない。

しばし続く、沈黙の間。

火に薪をくべた法師が、綾小路へと顔を向ける。

「それならば、なおさらのこと。学問を学び、この先どうすればよいかを正しく考えられるようになるため、道真公の下で生きる術を身につけた方が良い。私はお前の見目をどうこう言いようがない、見えぬからな。だが、今、この世にはお前を視ることができる者のほうが、ずっと多いのだ」
「……法師さま」

確かに、法師さまの言う通り。綾小路のこの先が、どれだけ長くなるかもわからない。人間は40年ほどしか生きないと聞いたことがある。ならば、法師さまとの別れもいずれはやってくるのだ。

「綾、お前はきっとこれから多くの人の助けになるに違いない。明日、道真公に会いに行こう」
「わかりました」

再び、江戸末期。

平安京が出来て、自由になるまでのことを思い浮かべて綾小路が歩いている。

いつの間にか小雨が霧のように細かくなってきていた。

幾度も変わってきた主、次は何人目だったかと指折り数えてみるが、もう数えきれないほどの屋敷を転々としていることに気が付く。

短ければ数年。長ければ数十年……同じ家で何世代も仕えることを拒み、1世代限りの側仕えとして世話になる。そういう生きる術を考えて下さったのは、法師さまの後に世話になった道真公であったのだ。

「……今日からは、この屋敷の主にお仕えするのか……」

霧雨が降る、曇天の下。

ここは 壬生寺 ( みぶでら ) のはす向かいにある、大きなお屋敷だった。

門前で、空を見上げる綾小路は、すぐに正面を見据え声をかける。すると使用人が出てきたので、手にしていた書状を渡すと使用人が中へと促してくれた。

別れは寂しいものだなとふと思っているのだろうか。

俯いて、門をくぐる綾小路。

新しい主に慣れたころには、別れがくる。けれど、また次の新しい主へとこの身は継がれていく……これが己の生きる術なんだと毎度、綾小路は腹をくくる。

(ここの新しい主にも、時期慣れることだろう……)と。

(そういえば、道真公にお仕えしていたあの日も、このような霧雨の日だった気がするな……)

894年の春頃だっただろうか。

細かい雨が降る最中、季節が進んでいた。

綾小路は、 山陰亭 ( さんいんてい ) と呼ばれる菅原家の学び舎へと向かっていた。

法師さまと道真公に会いに行った日から数カ月経過し、道真公の御側につき学問や人間の世界についても学んでいた頃のことだ。

「……まだ、道真公は来ていらっしゃらない? 私よりも先に白梅殿を出られたのに、一体どこへ行かれたのか?」

山陰亭とは、道真公の祖父が立ち上げた私塾のこと。祖父、父、道真公とが講義を行っている場所。今では、その講義を聞くために集まった生徒が、屋敷の廊下にもはみ出るほどに人気がある。

ここに集まる者たちは、主に紀伝道(主に中国史)を聴きに来ていた。その中の一人が綾小路の疑問に応えた。

「いつものことです。春ですから、何か途中で見つけられたのでしょう」

と先に道真公から学んでいる生徒たちも、解答した者と共に笑っている。

すると、綾小路と生徒たちの後ろから、声がかけられた。

「何だ? 私の話をしているのか?」
「あっ、先生!?」
「……おかえりなさいませ」
「うむ。綾、茶を淹れてきてはくれないか?」
「はい、ただいま」

和やかに、学問と側仕えをこなす日々が続いた綾小路。

ある日、道真公が遣唐使として、大陸へと渡る話が持ち上がる。

「先生! 誠に海を渡るのですか!」
「私もお供につれていってください!」

その噂が広まった頃、生徒のほとんどが、毎日道真公の周りを取り囲んでいた。

「皆、落ち着いてくれ。私は、この話を辞退しようと思っているんだ。さあ、この話はおしまいだ。席につきなさい」

ざわついていた生徒の中には、落胆した者や、安堵した者もいるようだったが、講義は皆がいつも通り静かに受けていた。

(辞退など出来るものなのだろうか……)

人の世が何となくわかりだした綾小路。

日々を占いや ( こよみ ) で決めて、生活を送っている人間たちのことが、とても興味深いと感じていた。

読み書きを習い始めて、よりよくこの世の状況もわかるようになって、綾小路は山陰亭の学びが終わっても、夜遅くまで道真公の下、様々なことを吸収していた。

「綾は、本当に呑み込みが早い。もう、このような難しい書を読むようになったのだな」
「はい。今は、知ることが楽しいのです」

この時、綾小路の頭を撫でた大きな手のことは、現代に存在する綾小路は今でも覚えていると、後の 主上 ( おかみ ) 丸太町 ( まるたまち ) に話している。

この道真公とできるだけ長く、共に時間を過ごしたいと彼が思っていた矢先——

901年の正月。別れの時は突然に訪れた。

「綾——! 綾はおるか!」
「道長公、どうされたのですか?」
「いいか、良く聞くのだ。私の妻と幼子を連れ、 紀長谷雄 ( きのはせお ) の下へ行ってくれ。この書状を持っていくのだ。お前のことも書いてある。紀長谷雄は、私の信頼する唯一の友だ。お前のことも良きに計らってくれるだろう」
「り、理由は教えて下さらないのですか!?」
「……天と地がひっくり返ったのだ。案ずるな、綾。私は大丈夫」

綾小路は言われるがままに、白梅殿から紀長谷雄の屋敷へと移った。道真公の妻と子供らと共に。

彼が元居た道の光景は、その時も頭の中に視えていた。多くの藤原家の人間たち、道真公の長男や次男、計4名を罪人を扱うように連れ立つ光景が綾小路の脳裏に入ってきていた。

それから、数日後。

(道真公は……あれから大宰府へと行かれたと聞いた……一体、何があったというのだろう……)と考えていると、紀長谷雄が綾小路のもとへやってきた。

「綾、道真から届いた、お前宛の文だ」
( きの ) さま。ありがとうございます」
「道真は、私の古くからの友。一番に親しい友だ。その友の私も知らぬうちに、側仕え……お前は、道真にとっては家族のように大切な友だったのだろう」
「ありがとうございます」
「あ、あと……お前のことは道真から託された。次の主が見つかるまでは、私の下で働いてくれると助かる」
「はい。ありがたいお言葉、感謝致します」

後に、紀長谷雄は世の中の様子を見はからって、道真公の妻と子供らを紀長谷雄の知る安全な土地へと見送った。綾小路はというと、紀長谷雄の側に仕えながら、道真公の文が届くのを心待ちにしていた。

そして3年ほどの月日が流れたある日。

遠い大宰府から道真公の崩御の知らせが届く――

『綾、こちらは春が来るのが早い。息災であるか? 私は京よりも早い春を楽しんでおるぞ。 お前のところにも、もう間もなく梅の見ごろが訪れよう。長谷雄のことは頼んだぞ』と。

そして、平安時代が終わり、度々戦が起こる世の中になり、都は帝が居ても安全ではなかったなと振り返る。最後の人間の主の下へ仕えた途端に、日ノ本中に不穏な風が吹く。

戦乱の世は再び。己の義のために人が人を殺す時代が幕を開けた。未だに草履で走る足音を、綾小路の耳が覚えている。

最後に仕えた屋敷では、逃げていた浪士をかくまったりしていた。そんな主の行動に、冷や汗をかいたこともあった。

今、平和な現代の亰にて、そのような記憶を思い出しつつ、綾小路は丸太町屋敷の庭で梅の花を眺めていた。

思い起こせば様々な事があったなと目を細めて。芳しい梅の香りを楽しんでいた。

「綾、今年も良き香りがするのう」
「主上……!」

振り返ると、今の主:丸太町がお盆に湯気の立つ湯呑を二つのせて現れた。

「茶を淹れてきたのじゃ。一緒に頂こうではないか」
「お声をかけて下されば、私が淹れましたのに」
「よいよい。こういうのは気が付いた方が淹れればよいのじゃ」
「ありがとうございます」

温かい湯呑を受け取ると、2条は自然に梅の花を愛でた。

「何をしておったのじゃ?」
「あ……この世にどうやって生まれ、どうして生きてきたのか思い返していたのです」
「ふう。それで、思い返してどうであった?」
「思い返してみれば、たいそう恵まれていたと思います。あの頃は、人間たちと生きることが私の術でした。でも、もう生きる術など考えなくてもいい。主上、私に声をかけてくださってありがとうございました」
「そうか。うむ。……良かったの」
「はい」

幕末には、最後の主に仕えた後に丸太町に仕えることを決めた、綾小路。

梅が咲き始めると綾小路は、この丸太町屋敷の庭で、最初の主の歌を思い出すという。

〈東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな〉

現代の綾小路通は、京都市内の中でも歴史ある京町家が数多く現存し、趣のある小路となっている。

- 完 -