青き道を守る者
都ができて千年を超える、令和の世の京都の夏。
水無月という菓子が菓子屋の店頭に並び始めてすぐ、例年よりも早くに梅雨がはじまり、例年よりも長く雨の日が続いていることに、皆がいささかうんざりしていた。
日中、気温も上がらず、涼しい日々が続く。
「なかなか梅雨が明けませんね……」
と烏丸がつぶやいた。
アスファルトを叩く雨の匂いがする、ここは京都の烏丸御池交差点だ。
「うむ。そうじゃの」
と返事を返したのは、烏丸の隣にいた丸太町だった。
通神たちの長的存在である彼が、珍しく物憂げに頷く。
「どうかなさいましたか?」
「いや……あの頃にこの雨の半分でも降ってくれていたら、多くの命が助かったろうにと思うてな」
「あの頃? それはいつの話のことでしょうか?」
「いつ? はて? ……今まであまりに多くの雨乞いをしてきたので、いつのことやら……しかし、いつぞやにはあの青龍とも雨乞いをしたことがあったじゃろ?」
「四神の青龍と……ああ、そうでしたね!」
「この長雨。もしやあやつが降らしておるのではなかろうか?」
「まさか……」
「いいや。ありうる。これはわたくしが一言物申さなくてはならぬのではないか?」
「え? あっ、主上どちらへ!?」
「お前は着いて来なくてもよいぞ。綾には遅くなるやもしれぬと伝えておいてくれ」
そう言って丸太町は立ち去った。
「……行ってしまわれましたね」
烏丸との話がきっかけで、丸太町は青龍に会いに行くことにした。
青龍とは、この地を守る四神のおひとり。いや、1匹? まあ、どうでもいいことだが、皆も聞いたことがあるのではないだろうか。
四神相応の地という言葉、この京都はそれが当てはまる地だ。
「東に青龍の宿る川」、「西に白虎が宿る大道」、「南に朱雀が宿る海」、「北に玄武が宿る山」という四方を取り囲み土地を守り続ける神がいる。その謂れは遥か昔より言いつがれてはいるものの、実在などはしないとされている。しかし、それは人間たちの間での話だ。
視えぬだけで存在していることを丸太町や他の通神たちは知っている。
同じ京都の地続きでつながっているからだろうか。懐かしい友に会いに行くような気持ちで、丸太町は青龍の寝床である山を上るのだった。
東には青龍の宿る川がある。
そう、それは鴨川のことだ。
青龍自体は、東の山々の中に眠っているが、鴨川や京都という土地の地中深くに流れる水源を主に守っている。
丸太町がやってきたのは、大文字山。
丸太町橋から見える東山連峰の一角にある、夏の終わりの風物詩にもなっている五山の送り火でも有名な、あの大文字山だ。
「おーい、青龍! いるのであろう? わたくしはもう歩けぬゆえ、出てきてくれぬかのう?」
と声をかけてみるも、山々からは何も返ってはこない。
しとしとと天から降る霧のような雨粒は、木々の葉が受け止め集まり、すぐに葉から滴となりて豊かな土壌へと落ち吸いこまれていく。
辺りに立ち込める空気には、踏みしめた豊かな土壌の香りが湿気をまとっていた。
この長雨で山の木々や草花も喜んでいるだろうが、そろそろ日差しも恋しいに違いない。それに番傘をさしてはいるものの、湿度の高い山の空気は、丸太町の着物の袖をも重たくした。
「さて、どうしたことか。番傘をさしておっても無駄のようじゃ……着物が重くなってしもうた……」
座って休もうと思って辺りを見渡すも、どこもかしこも濡れていて休める場所などどこにもない。
もう少し軽装で来ればよかったと思うてみたとて、ここへは思い付きでやってきたのだ。それに青龍はこの京の地を守る神、そんなに易々と会えるわけもない。己の考えが少しばかり甘かったのだと丸太町は思う。
「そう上手くはいかぬか……手土産でも持って出直すとしようかの」
丸太町は踵を返して、顔を上げた。
途端、ぬかるみに足元をとられ転げ落ちてしまう――
あのまま落ちて気を失っていたのか……
しばらくして丸太町が気がつくと、何やら見慣れない場所で寝かされていた。
「ここは……どこじゃ?」
「ここは八神社の祠の中だ」
八神社とは、京都市左京区銀閣寺町にある神社だ。その境内には
丸太町の目の前にいる青年は、おそらく青龍。
「……おまえは、青龍かの?」
念のため聞いてみる。
すると、難しい顔をして青年は口を開いた。
「相変わらず質問ばかりするヤツだな。そうだ、お前の知る青龍だ」
「そのような出で立ちで現れるとは、思わなんだでの。質問も多くなるじゃろ?」
青龍と名乗る青年は、うろこもなく、人と同じ姿だった。
青年は今風の格好をしていたので、丸太町は不思議に思ったのだろう。
つい彼の足先から頭のてっぺんまで視線を移す。
すると青龍が言った。
「この格好の方が何かと都合が良いのだ。そんなに見るな」
「それは、わたくしもそう思う。ということはじゃな、青龍も街へ行くのかの?」
「まあな」
昔も昔、平安京ができる以前には、四神は人とも交流があったと聞いている。
平安京ができたころの話だが、南を守る朱雀は朱雀大路の下に長らくいたし、白虎はよく西の山々の麓で昼寝をしていたし、玄武も天から船岡山まで下りてきては人の姿で月見をしていた。
平安京ができてもしばしの間は、彼ら四神たちは通神とも交流があった。と言っても通神たちが四神たちを見かけた程度のこと。大いに関わった事があるとすれば人間たちの雨乞いが天に届かなかった時くらいだ。
その頃は、龍の姿であっても時折、人の目に視えることがあったとか、なかったとか。
しかし、時が経ち今では語り継がれる空想上の神とされている。
「便利な世の中にはなったが、昔も良かったのう」
「そうか?やれ日照りだ、大火事だ、疫病だの人間たちはいつも全てが神頼みであった。しかし、今の人間たちはかなり自立したようでホッとしておる」
「それでも、四神へ祈る者達は少なかったのではないのかのう?」
「よくもまあ、そんなことを。神と名の付く者達が我らの力を借りに来るだろうが。いつもいつも……お前、丸太町の願いを聞き届けたこと、よもや忘れておるのではないだろうな?」
懐かしさいっぱいで、ここに来た丸太町であったが、どうも青龍の様子が彼の知っている青龍とは違う。どう違うのかといえば、少々機嫌が悪い様子。
ここで、この長雨はお前のせいか? などと言ってしまったら……もう今年いっぱいは雨の覚悟をしたほうがいい。
そう考えた丸太町は、言いたいことを胸に仕舞い青龍に話しかけた。
「その節は世話になったと思うて、今日は顔を見に寄ったのじゃ。手ぶらですまぬ……何せ、会いに行ってみようと思ってそのまま来てしもうたのでな」
「ふん」
青龍は顔を背けて、祠の外の様子を見に行った。彼に続いて、丸太町も祠から外の様子をうかがう。
「お前の事だ。どうせ、この長雨を責めに来たのだろう?」
と核心をつくような言葉が投げかけられる。
丸太町は、わざとにこやかな目元を作り話をそらすように、青龍と向きあった。
「……何かあったのかの? わたくしで良ければ話してみぬか?」
青龍は一度立ち上がり、日が傾いてきたので、祠の中に蠟燭を灯す。そして、お供え物の御神酒を拝借すると再び丸太町の前に座った。
「お前も呑め」
「それは、供物であろう? わたくしは遠慮する」
青龍はニカッと笑みを浮かべて、丸太町の盃にも酒を注いだ。
「神が一度味わったあとのものを頂くとご利益があるというぞ?」
確かに、神道では、お供え物は「
「なつかしいのう、ほんにそうであった。昔人間たちと過ごした村でもそうじゃった」
丸太町がそう言うと、青龍は小さく頷く。
「さあ、お前も」
「ならば、酒を無下にすることもないのう」
二人は、なみなみに注がれた盃をくいっと飲み干す。
そして、青龍が口を開いた。
「何でもない事なのだ。話すようなことでもなければ、話すこともさほどない」
「それでも、何か憂いておるようじゃが?」
青龍の黄金色の瞳に憂いを感じる丸太町。
ふと、その瞳に丸太町の御面が映った。
「……その面、今は猫なのだな」
「ん?ああ、そうじゃ。猫面じゃ」
「前に会うた時は、たしか……狐の面だった」
「狐面は平安京ができるずっと前からつけておったぞ?」
「そんなことは知らぬ。だが、初めて会うた時は狐の面だった――」
丸太町が狐の面をし始めたのは、平安京ができる二百年前くらいのこと。
その頃、丸太町は名もなく人間たちと暮らしていた。
名が無かった故、賀茂族の村の民からはマルという名で呼ばれており、神の子と皆が大切にしてくれていた。当時、人間とは違いマルの見目が変わらないことを理由に、人間たちは彼を外部の人間たちから守るために、狐の面をつけさせたのが丸太町の御面のルーツでもある。
そのようなことを思い出し、丸太町の頬が緩んだ。
「何を笑うておるのだ?」
「いや、何故わたくしが面をつけるようになったのか思い出しての」
「それは、儂も知りたかった。何故なのだ?」
丸太町は、今思い出していた遥か昔の記憶を青龍に話した。
昔話には花が咲くものだ。
同じ記憶を共有して、笑いあうひとときは青龍の心にも花を咲かせた様子。
いつの間にか、憂いを帯びていた青龍の顔つきが変わっていた。
丸太町が知る、以前の光を宿した瞳が戻ってきていたのだ。
「良き顔つきじゃ。わたくしの知る本来のお前は、今のような瞳をしていた」
「それは、あの時か?」
青龍が思い出したのは、この長い間存在している中で一番楽しかった思い出だった。一番古くは777年(宝亀8年)の冬のことだ。この地の地中深くあった水源が涸れたことがあった。丸太町、当時のマルが青龍を探して酒造りの水が欲しいと願ったことがあった。
「狐面の少年が儂を訪ねてくるなどとは驚きだった」
「この地の水源は、お前が自由にできると聞いたからのう。それにしてもまさか宇治川から水を取るとは、あの時さすがは青龍だと思ったものじゃ」
「ところで、儂が水を自由にできると誰に聞いた?」
「それは内緒じゃ」
「相変わらず食えぬヤツだな」
「ふふふ」
そして、その次にマルが青龍と会ったのは、たしか……824年-834年、天長年間と言われる十年間。この頃は神泉苑でしばしば雨乞祈願が行われるほど、あまり雨に恵まれなかった年が続いた。平安京は長い旱魃のせいで、疫病が流行り、常に食料が不足していた。苑内に善女竜王が祀られたのもちょうどこの頃のことだ。
雨が降るようにと願った人間たちの願いは、なかなか届かない。
平安京の東西南北に張り巡らされた通りも乾ききり、風が吹けば砂埃が舞う。
雨を願うのは、何も人間ばかりではなかった。
干からびた賀茂の川原に捨て置かれた犬などの死骸も、きっと水を求めて河原にたどり着いたのだろう。そのような光景を、何もできずに呆然と見つめていたのが通りの神たちだった。
「お前たちが情けない顔をして鴨川を眺めている様子は、あの時の儂にも届いていたのだが……」
「ならば、もう少し早く何とかしてほしかったのぅ……」
丸太町の記憶の中の天長年間は、本当に悲しい記憶しかない。
「あの頃は……すまなかった……」
「なんじゃ、青龍らしくもない。もう過ぎたことじゃ」
青龍のあのころの後悔が丸太町にも伝わる。
丸太町は彼の肩をぽんぽんと叩いた。
「あの時……困った時に、お前が居てくれて本当に良かったとわたくしは思ったのじゃ。元々は道の化身であるわたくしたちには、天の意志を動かすことはできぬゆえ」
『天の意志』
どこまでも続く蒼天が、地上に生きるものたちの命をも脅かす毎日。
そこに限りを与えてほしいと、あの日も丸太町が青龍を訪ねていたのだ。
一度ならず二度までも、数百年前と変わらぬ姿で狐面の少年が青龍へと跪いて頭を下げた――
「あの日のことは、儂もよく覚えている。人間とともに暮らしていると一番最初にあった時、言っていたお前が再び現れたのは数百年も経った頃だった。『雨を降らしてやろう。お前がその面を外したのならな』とあの時、儂は言ったな」
「そうじゃった。確かに言うたの」
「人間たちの使いでやってきたお前に、興味がわいたのだ。青龍ともあろう者が馬鹿げた交換条件を出してしまったと、あとから悔やんだことも今、思い出した。ハッハッハ!」
「賀茂の村人たちと人前では面は取らぬと約束しておっての、お前の交換条件はのめなかったのじゃ。すまぬ。されど、お前は望みを叶えてくれたのう」
大笑いしている青龍の声が轟いたのか、はたまた梅雨が明けを知らせる雷か。
蠟燭の燃え尽きたのと同時に、木で出来た祠の僅かな隙間から、朝の陽ざしが入ってくる。外からは小鳥の嬉しそうなさえずりが聞こえてきた。
「久しぶりに笑った。丸太町、ありがとう。儂の心に降る雨も止んだようだ。どうだ、大文字山から朝日を拝みに参ろう」
「そうじゃの」
祠から出た青龍は龍の姿へと戻る。
「ほれ、背に乗れ。あっという間に山頂を目指すぞ」
丸太町は青龍の背に乗り、雨上がりの大文字山へと昇った。
大文字山に着くと、丸太町は青龍の背から降りて青龍の頬を撫でる。
「わたくしもまた会いに来るとしようかの」
「次は手土産に、旨い菓子を頼むぞ」
「あいわかった」
辺りを見渡すと、どの木々も滴をたたえて煌めいていた。
優しい風が吹いたかと思えば、青龍は再び飛び立つ姿勢になる。
悠々たるその神々しい姿はまさしく丸太町の知る姿だった。
「また会おう、最後にその猫面を……いや、やめておこう。儂は青龍なのだから」
そう言うと青龍は本来の姿に戻り、風に乗り、東山連峰の青き森へと帰っていった。
残された丸太町は青龍の後ろ姿を見送りながら、そっと自身の猫面を外す。
「面くらい外してやっても良かったかのう」
一人ごちる丸太町の声など届くはずもない。
他の通神たちも知らない素顔は、ふたたび面で覆われる。
「主上!」
と遠くから聞こえる声に丸太町が振り向くと、山を登って迎えに来たのは綾小路と烏丸だった。
- 完 -
作:西門檀