通神想起譚 –丸太町編–
「それでは、わたくしがどうやって始まったのか、話そうかの……今、こうしてここに存在するまでの事を話すのじゃ、長くはなるが最後まで付き合っておくれ」
そう言って
時は、気の遠くなるような遥か昔の京都でのこと。
今は京都と呼ばれているこの地が、
土地に名もついているのかどうかわからないような頃。もともと住んでいる者がいるところに、海を渡り新天地を求めたどり着いた者たちや、また山を越えこちらも新しい土地を求め移ってきた別の者たちが同じ土地へと合流した。
現代においても京都という場所は、世界中の人々に愛され、誰もが一度は訪れてみたいと思う場所になっている。それは昔から、あまり変わりがないようだ。
そんな人を惹きつける、この場所に、栄えある時代が訪れようとしていた――
青々と草木が覆い茂る山背の西方に、
それは踏みしめられて土が見えてきた小道の意識。
この小道は後の
その意識はやがて、少年の姿を成し道端に存在するようになっていく。
少年は、その場所にずっと留まっていて、毎日いろいろなことを考えたり、思い巡らして過ごしていた。
少年はある日思った。
(はて? どんどんといろいろな景色が入ってくるのは何故か……?)と。
少年のいる場所から少し東に行くと、大きな川が流れている様子が感じ取れる。その川を越えた東には美しい青い山々が連なっているのも、頭の中に映し出された。
そして、定期的に川のある方面から人が来ることにも気が付く。
(……あの人間たちは、何処へ行くのじゃろ?)
大きな壺を背負った、体格の良い男が歩いてきた。
よくよく観察してみると、体格の良い男は細っこいにこやかな男と一緒だった。体格の良い男は、にこやかな男の指示に従って歩いているように見える。
そして、その細っこい男の話声が、少年の耳へと入ってきた。
「なんでも、川の下の方でも酒を造り出したそうだ。明日はそちらにも足を運ぼうかと思う」
「はっ。わかりました。今日は西の山のふもとまで行くんですよね?」
「ああ。そのつもりだ」
細っこい男がそう答えたところで、少年の前を通り過ぎた。
二人がいつも何処へ行くのか、気になる少年。
二人について行ってみたいと思うも、少年はその場所から動くことが出来ない。
次第に遠のいて行く、二人の後ろ姿に何だか寂しく思う。
「はがゆいのぅ……おーい、わたくしも連れて行ってくれんかのぅ……!」
そう、二人に声を投げかけてみるものの、彼らに少年の声は届くことはなく……少年がそこにいることにさえ気が付かなかった。
落胆した少年はたまらず己の膝を抱えた。
(ここにおるのに、だぁれも気が付かぬ……やはり、わたくしはあやつらとは違うのかの?)
ほんの一つ、心に芽生えた疑問は、日を追うごとにだんだんとその存在を大きくしていく。それを解決できる答えは見つからないまま、時は過ぎて行った。
(わたくしは、一体何者なんじゃ?)
やがて――少年が自由になる日がやってきた。
この日、少年の座り込んでいる道端は、いつもより多くの人が行き交っていた。
刻はまだ日が頂点へと向かう頃のことである。
「なんじゃ? この先で何かあるのか?」
耳を澄ますと遠くで、笛や太鼓の音がする。皆、その音の方へと歩いているのか、人々は足取りも軽く楽し気に見えた。
少年の頭の中に聞こえてくる音には、軽快な節がついていて、人々の中にはその節に合わせてひょこひょこと踊りながら歩いていく者もいる。
(この音の出どころが知りたいのう……)と思っていた少年は、次第に音に夢中になり、スクッと立ち上がった。
聞こえてくる音が、少年の動かなかった身体をどんどんと自由にしていく――
目の前の景色が初めて移ろうことに気が付いて、少年はハッと立ち止まった。
「動ける……! 何故じゃ? 何故、わたくしは動いておるのじゃ!」
つい大きな声が出る。
ずっと動きたかった願いが叶い、喜びが湧き上がった、その時。
あの二人組が歩いてくるのが目に入った。そう、体格のいい男と細っこい男が、他の者と同じように音のする方へと向かっている。少し離れたところからこちらへと来ている話し声が、少年の耳へも届いていた。
「……あの者達じゃ。音の出どころへと行くのじゃろうか?」
いつものように彼らが少年の目の前を通り過ぎる瞬間、少年は二人に対して行動に出た。
「待ってくれ! わたくしも連れていってくれ!!」
と駆け寄って手を伸ばす。
彼がむんずと掴んだのは、細っこい男の袖だった。
「……!! 驚いた。小僧、何だ? 私に用か?」
目を丸くした細っこい男は、少年を見下ろす。見下ろした視線は、真に驚いた目をしていて、丸くなってはいるが、その瞳にはしかと少年が映っている。
「よ、よかった。わたくしのことが見えて。ハッ……わたくしも! わたくしも音のする方へ連れて行ってくれ!」
すがるように袖にくっついた少年に、細っこい男は理由を聞かず笑顔で頷いた。
「いいだろう、共に行こう! 今日は特別な日だからな」
「とくべつな……日とはどういう日なのじゃ?」
「ここ数年、この地では水害や疫病が流行り、飢えた民たちも多かっただろう? あれは全て、賀茂大神の祟りなんだそうだ。そこで今日は、盛大に賀茂の祭りをして大神の怒りを鎮めるのさ」
そう話した細っこい男は、続けて自分は賀茂一族の者で今日の祭りの酒を運んでいるという。
「かもさんは、何も持ってはいないではないか」
と少年はこの男の事を、かもさんと呼び、笑われる。手ぶらの細っこい男は、少年に何人かの壺を背負う男たちを指で差し示した。
「あの男たちの背負っている壺には、祭りで使う旨い酒が入ってるんだ」
「酒とは何じゃ?」
「酒とは、そうだな……神様への供物なんだが、香りのよい飲み物だ。おい、ちょっと来てくれ」
少年がかもさんと呼んだ男は、たくさんいる壺を背負った男の一人を呼ぶ。男は壺を背から降ろして地面へと置く。土で素焼きした壺の中をのぞき込むと、少年の顔が酒という揺れる液体の表面に映し出される。すると、かもさんと呼んだ男が、壺の中の酒を酒杯ですくった。
「これが……酒と言う代物か?」
初めて見る液体は、そこはかとなく芳しい甘い匂いが漂っていた。
「良き、香りじゃの」
「おお、この香りがわかるのか」
「わかる。わかるとも。この芳しさは春の風が運んでくる花々の香りに似ている」
その少年の言葉にかもさんは目を丸くして、こう言った。
「驚いた。まだ子供なのに、このように酒のことがわかるとは……! 少し舐めてみるか?」
「親方、さすがにそれは……」
「舐めさせるだけだ。ほれ」
酒壺を背負った男が止めるのも聞かず、かもさんは、少年がこの酒に対してどう評価するのか知りたくて、うずうずしているようにも見えた。少年の鼻先に差し出された酒杯から、滴が垂れる……
「うむ……」
少年は、差し出された杯の酒を受け取ると、舐めるという行動ではなく、一思いに飲み干した。途端。口の中に一気に広がる香りと、鼻を抜ける熱。カッと喉元をも燃やす液体の甘さが、後から舌の上にしみ込んだ。
「こやつ、飲み干しよった……おい、大事ないか?」
あっけにとられた、かもさんとそのお供は少年を覗き込んだ。
二人の心配をよそに、少年はにっかりと笑ってみせる。
「これは、旨いものじゃの! 初めて飲んだ。花の香かと思うていたが……なんのなんの。花の香よりも甘い、甘さが鼻に抜けてまろやかじゃ。そして、何と熱いこと!」
かもさんは、大きく頷いて少年の手を引っ張った。
「これは宝ものを拾ったかもしれん。小僧、もし行くところが無ければ、祭りの後は私達の村に来るといい」
その言葉をきっかけに道に芽生えた少年は、賀茂の祭りの後、かもさんの世話になることとなる。
現代。
「賀茂祭はの、今の葵祭の原型じゃ。元は、
丸太町は、そう話すと
「葵祭には行ったことがあるかの? まだなら一度、見ておくと良いぞ。平安貴族の装束をまとった行列が見事での。わたくしも毎年、楽しんでおる」
「お話中、失礼いたします。
「ありがとう、綾」
新しく淹れられた茶葉の香りは、この丸太町屋敷の一室を優しく包み、再び丸太町の遥か昔の記憶を呼び起こしていくのだった――
賀茂祭をきっかけに出逢ったかもさんの村は、賀茂川の上流にあった。
味や風味をきちんと言葉にできる少年は、村の民たちに温かく迎え入れられた。
そして、直に少年は村人たちに『マル』という名で呼ばれるようになった。
人間の世界を知らない少年が、些細な事でも驚くので目がいつも丸くなる……そんなところから、つけられた呼び名だ。
「マル、今度も頼むぞ。西方に旨い酒があるそうだ」
「そうか、楽しみじゃの」
もちろん、この賀茂の村でも酒造りは行われている。今でいう比叡山に当たる山々から神聖な湧き水が出ていて、その水で仕込んだ酒だったのだろう。神の供物である酒を、祭りの時には飲むこともできた。酒造りも学び、主に味見担当のマルは、人間たちと共に楽しく穏やかな日々を送っていた。
と同時に、近くで酒造りが行われていると聞けば、かもさんや壺を持つための男衆を連れて、はるばると出かけることもあったという。
少年マルは、そんな平穏なところに身を置いてはいたが、いつも頭の中に流れ込んでくる景色や出来事を感じながら過ごしていた。
人が感じ得ないことを感じながら
「わたくしは、やはり人とは違うんじゃな……」
と憂うこともあったと後に出逢う
それから月日は流れ……賀茂氏の村に少年マルが来て、三十年余りが経とうとしていた。
マルを見つけた初代のかもさんはとうに亡くなり、二代目のかもさんも旅立ち......今は三代目のかもさんがマルと酒の仕事をしている。
見た目の変わらないマルのことを、村人たちは神の御子として認識するようになり、外から来る人間に不審に思われないよう、少年のことを守るため、その顔にお面をつけさせた。酒造りにおいても、村に利益をもたらしているマル。誰も彼の事を不思議がったりすることなく、神が、この村に遣わした村の一員として受け入れられていた。
ある日。
三代目のかもさんが最後の役目になるかもしれないとマルを訪ねてきた。
「西方の果てに、社が建ったそうだ。そこもご神体が山にあると聞く。酒が造られているそうなんだ。かなり遠いが、共に行ってはくれないか?」
「もちろんじゃ。かもさんと出かけるのは久しぶりじゃの」
「ああ」
山背の地をあちこち人づてに聞きながら酒を求めた、かもさんとの日々はマルにとって大切な日々だった。
これが最後になるかもしれないと思う、とかもさんが言った通り、西方に出来た松尾大社から戻るとかもさんは亡くなってしまった。数々の旨い酒を見つけ、共に語らい働いた日々。
当時の人間の寿命は、30代くらいだろうか。それを考えるとかもさんは長生きな方であった。
「マル、これまでありがとう。これからも村の事を頼む」と最後はマルに言い残して。
このかもさんと行った松尾大社の地で、マルは後の四条のことを見つけていた。
その後、四条は自分が何者なのかと悩んでいたことを聞くと、マルも同様そのことで悩んでいたのだが、それを知らせずに、ただ彼のところに定期的に顔を出すことにした。
その後、かもさんの後任でマルと一緒に行動していた賀茂氏は、マルにこう言った。
「お酒は神聖なモノでなければならないので、神の使いだと適任だ」
それは、ちょうど平安京が出来て――マルの中で、『春日小路』と自身の名が明らかになった頃の事。
そこへ、大内裏の
舌の肥えた、とくにお酒のこととなれば、マルが適任だと賀茂氏が造酒司の役人へ推薦したのだった。
そんな様々な事がこの地で動き出した、新京ができた次の年の春。
この日は松尾大社で豊穣の祭りがおこなわれていて、野に咲く花々や小鳥も舞い踊っているかのように感じる温かな景色が広がっていた。
そこへ松尾大社で酒をわけてもらった帰りのマルが、声をかける相手はただ一人。
ようやく名がついた四条のところだ。
マルは、久しぶりに会う彼へと嬉し気な足取りで近づいていった。
「久しいのう。今日はわたくしに名がついたので立ち寄らせてもらったぞ」
「3年ぶりになるか?」
そう答えたのは、いつもこの松尾大社の地で会う青年。
「ん? さて、あの時は秋であったからの。今は春。2年と幾月かぶりではないかの?」
「ふむ。それで、名はなんと決まった?」
「わたくしの名は、大宮までは春日小路と呼ばれ、それより右京では
「はて、それならば、どちらで呼べばいい?」
「どちらでも好きに呼べばよいのではないかの。しかし、わたくしたちが何者なのかという謎はこれで解けたであろう」
春日小路は、この新京の名がついた知らせをいち早く、仲間かもしれない青年に伝えたかった。己が何者であるのかを知り、ようやく抱えていた悩み事が小さく消えていく。
「謎、確かに解けたな。我は道であったかと驚きもした」
「お主の名は間違いでなければ、確か……」
「ああ。
この時、四条の意識は西の端は松尾大社から東の端は八坂神社までを結んでいたことも聞き、春日小路はやはり彼が仲間だったのだと嬉しくなったと言った。
――そして、再び現代。
「あれから、多くの通神たちとの出会いもあれば、別れもあったの……」
と昔々の当時を思い、丸太町は深く息をついた。
「平安京で、二つの名がついたわたくしじゃが、その後、何故に丸太町となったか話しておこうかの」
丸太町の話をここまで聞いていた者が、大きく頷いた。
それもそうだ、『春日小路』がどうして『丸太町』へと名が変わったのか。
『四条大路』は『四条通』、過去も現在も『四条』と名称の変化が少ない。
「フフフ。そうじゃろ? まあ、人間たちの決めることじゃからの、真相はおそらくこういったことから、という話しかできぬが……」
それから――現代の話を少し話し出した丸太町。
この名は、江戸時代についたようだ、と。
江戸時代に書かれた地図には『丸田町』と表記されていることを見せてくれる。
「今のわたくしは、平安京の頃は『春日小路』に当たるのじゃが、昔あった
由来になった材木を運んでいた西堀川は、今は無い。
平安京には、その西堀川を挟んで存在していた通りもあったが、現在はほとんど見られなくなったことを丸太町は丁寧に話した。
江戸時代の宝永の大火の後には、公家の町が丸太町通に隣接するほど拡張されたため、現在では、京都御苑の南側に丸太町通が存在する。
「それからのぉ、まだまだ近年の話も続くぞ。わたくしの今の道は、
ふと、丸太町は今まで話を聞いてくれていた者へと視線を移した。
その寝姿は、まだどこかあどけなさが残る人間……
「何じゃ、寝てしもうたのか。わたくしの話が少々長かったかの……?」
どうやら、丸太町は通神たちの世界『
丸太町は眠ってしまった神和を見て、口元を緩ませた。
「綾、神和に何かかける物を」
「はい」
しばらくして、綾小路が
その袢纏を眠ってしまった神和にかける。
「主上、お茶を淹れましょうか?」
「そうじゃの。熱いのを頼むとしようかの……のう、綾。わたくしたちは本当に長い間、この地を見てきたのじゃな」
「そうですね」
「こうして誰ぞに話すと、より鮮明に思い出される」
そして、熱い鉄瓶で沸かされた湯が、急須へと注がれた。
「わたくしは、この世に存在してからずっと恵まれておる。共に過ごした人間たちや通神たちにも感謝しか湧いてこん。それは綾にもじゃ」
「もったいないお言葉、痛み入ります」
急須から湯呑に注がれる、熱いお茶。三度目の茶の香りは、夢の中の神和へも届いたかもしれない。その寝顔がフッと笑みを浮かべた。
「人の子には少々難しい話じゃったかの?」
「いえ、大変わかりやすいお話だったかと思います」
「綾は優しいのう」
熱い湯呑が、丸太町の口元に添えられる。
ススッとごくわずかな音をたて、熱を逃しながら飲むお茶はとても美味しいのだろう、丸太町はにこやかに湯呑を置いた。
「どうかされましたか?」
綾小路が、丸太町の笑みの理由を尋ねる。
すると、丸太町は綾小路に話始めた。
「いや……ただ、知ってほしかっただけなのじゃ。わたくしがいつから存在していたのかを。この京都という都が、昔はどのような様子であったのか……通りがどういう風に出来たのかを。 ただ、ただ知ってほしかったのじゃ。この神和が元の世界に戻れば、わたくしの話したことも忘れてしまう、それでも聞いてほしかった。人の世の未来を継ぐことになる者にの……」
丸太町の言葉の裏には、存在するものにも使命があると言いたいように聞こえた。
その使命を全うして、無くなってしまう時が来るのなら本望だとも感じる。
だけど、その存在があったことだけは、どうか覚えていてほしいと神和には話しておきたかったのだろう。
それが例え、神和が『亰』へ滞在している間だけでもいい。
丸太町の願いはただ一つ。
今の平穏な日常が人々にとっても、通神たちにとってもとこしえに続くことなのだ。
- 完 -